「からたちの花」で有名な山田耕作。実は、巣鴨教会とは密接な関係にあるのです!

からたちの花
作詞 北原白秋
作曲 山田耕作
からたちの花が咲いたよ
白い白い 花が咲いたよ
からたちのとげはいたいよ
青い青い 針のとげだよ
からたちは畑の垣根よ
いつもいつも とおる道だよ
からたちも秋はみのるよ
まろいまろい 金のたまだよ
からたちのそばで泣いたよ
みんなみんな やさしかったよ
からたちの花が咲いたよ
白い白い 花がさいたよ
↑「からたちの花」記念碑

山田耕作が実父を亡くしたのは1896年、耕作が10歳の時でした。その後、キリスト教の伝道活動をしていたこの実父の遺言もあり、耕作は巣鴨宮下(現南大塚)にあった自営館という施設に入館します。この自営館こそ、今の巣鴨教会の前の姿です。自営館は、苦学生に仕事を与え、自活させながら学校へ通わせるための施設でした。もともとは巣鴨教会の初代牧師・田村直臣が、芝白金にて開館していたのですが、1894(山田耕作が入館する2年前)に今の場所に移転されました。自営館で暮らす学生は、帝大や早大に通いつつ、畑仕事や牛乳配達、活版所の仕事に従事しました。山田耕作も又、13歳までの日々を館内の活版工場で働きつつ過ごしました。この自営館からは、山田耕作を含む、多くの頴才が巣立ちましたが、経営難から1919年に自営館は廃止されます。自営館の跡地に建つのが巣鴨教会です。


「からたちの花」は、北原白秋が、山田耕作の自営館での思い出
(下記ご参照下さい)に共感して作詞したと言われています。巣鴨教会の敷地内に立つ「からたちの花」の記念碑は、1999年、当時の森下憲郷牧師・教会員等によって建てられました。記念碑の周囲に植えられているからたちは、福岡県にある北原白秋記念館から種を分けて頂いたものです。

↑「からたちの花」記念碑 アップ

山田耕作 『自伝 若き日の狂詩曲』 より

「特に私など、育つ盛りだったので、すりへらした庭下駄のような薄い寄宿舎の弁当では、とても足りようはずはなかった。たまらなくなると、活版所の周囲の畑から、季節季節の野菜を手当たり次第にとっては、生のままかじった。胡瓜、大根などはご馳走だった。茄子も二つに割って塩でこすれば充分舌に乗った。どうしても駄目なのは南瓜だ。
 秋になると私の眼は輝いた。からたちの実が色づくからだ。はじめはすっぱくてむせかえるほどだったが、馴れると仲々よきものだった。殊に生の野菜と一緒に食べると、下手なサラダなどより数等いい味だった。
 工場で職工に足蹴にされたりすると――活版職工は大体両手がふさがっているので、殴るより蹴る方が早かった――私はからたちの垣まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方にそそいだ。そのまま逃亡してしまおうと思った事も度々ではあったが、蹴られて受けた傷の痛みが薄らぐと共に、興奮も静まった。涙もおさまった。そうした時、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。ようやくかわいた頬がまたしても涙に濡れるからだ。
 からたちの、白い花、青いとげ、そしてあのまろい金の実。それは自営館生活のおける私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ。」