巣鴨教会聖書研究会 創世記44〜45

2006年10月29日 渡辺善忠

 

1.ヨセフの複雑な思い

 44章には、再度エジプトを訪れた兄弟たちに対して、ヨセフが屈折した思いを抱いていたことが伝えられています。ヨセフは直前の場面で、兄弟たちに宴席を供しているにも関わらず、ここでは兄弟たちを陥れようとしています。このようにヨセフが矛盾した行動をしている背景には、同じ母から生まれたベニヤミンへの偏愛と、他の兄弟たちをどのように受け入れるかという複雑な思いがあったと考えられます。

 私たちはまた、この章でヨセフの心の葛藤が解決されていないことから、神が、隠れたお姿で私たち人間を導いておられる御業を示されたいと思います。なぜなら神は、私たちの理解を超えてご自身の御業をなされるからです。振り返りますと、ヨセフの兄たちは、生意気な弟を疎ましく思って野の穴に投げ込みました。しかしヨセフは、行商人に助けられ、紆余曲折を経てエジプトの宰相となりました。この間、ヨセフも兄弟たちも、それぞれの自由な意思で歩んでいたはずです。しかし、私たちが自由な意志で歩んでいると思っていても、見えざる働きで道が塞がれることがあるのではないでしょうか。私たちはこのことをふまえて、創世記の著者が、ヨセフの心の葛藤と矛盾した行動に対してすぐに答えを与えないことによって、神の働きを待ち、受け入れることの大切さを示していることを心に刻みたいと思います。

 

2.和解へ

 37章から始まったヨセフ物語は45章1〜15節で頂点に達します。創世記の著者は、神が、ヨセフの夢を通して語られた約束を本当の出来事となさることを示すために、巧みな筆致で読者を導いて来ました。創世記の著者が優れた語り手であることは、44章の結尾と本章とのコントラストに最も良く示されていると言えましょう。

 私たちは、ヨセフが兄弟たちに身元を明かした出来事には、神が私たちにご自身を示して下さる御業が象徴されていることを心に留めたいと思います。なぜなら、ヨセフがここで、兄たちに復讐出来る立場にも関わらず、「どうか、もっと近寄って下さい」(4節)と言った出来事には、神が、聖書の多くの場面で、「恐れるな」という言葉と共にご自身をあらわされる御業が象徴されているからです。私たちはこのことから、ヨセフ物語のクライマックスである和解の場面には、神が私たちの罪を赦して下さり、ご自身をあらわされる神の御業が象徴されていると共に、私たち人間どうしが、お互いの罪を赦し合うことの大切さが示されていることを示されるべきでありましょう。

 私たちはさらに、父ヤコブや兄たちが死んだと思っていたヨセフが生きていた出来事が、「死んだはずの者が生きている」という意味で、主の復活を遠く指し示していることを心に留めつつ、ヤコブの家族が和解に導かれた場面を読み進みたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

 ある旧約聖書の学者は、ヨセフ物語はイスラエルが最も繁栄した時代に成立したと述べていますが、この説は私たちにとって大切な意味があります。なぜなら、繁栄の極にあったエジプトを舞台として、神が見えない姿で人間を導いておられる御業が伝えられていることには、現代社会の中で神の働きを見出すことの大切さが示されているからです。私たちはこのことをおぼえて、神なき時代に思える現代においても、神が全ての人々を導いておられる御業を、教会として伝え続けてまいりたいと思います。