巣鴨教会聖書研究会 39章

2006年月1日 渡辺善忠

 

1.冤罪

 39章の始まりは37章のしめくくりに続く内容であることから、38章はヨセフ物語の中に挿入された部分であることがわかります。また、3941章がまとまった内容であることに加えて、この場面にはヨセフの家族たちが全く登場しないことから、この三章は、42章以降とは異なった伝承に基づいて記されたと考えられています。

 39章の最も大切な主題は、主がヨセフと共におられ、ヨセフがうまく事を運ぶことです(2、3、23節参照)。このことを、物語の展開に照らして考えますと、この章では、夢を司る者(ヨセフ)が、エジプトという大国(ファラオ、ポティファル、ポティファルの妻)に優っていることが伝えられています。ここでは、一見、ポティファルの妻が権力を持っているように見えますが、ヨセフが無実であったにも関わらず監獄に入れられ、そこから開放される出来事には、信仰者の歩みを神が守られ、政治的な権力よりも神の御力に従うことの大切さが示されていると言えましょう。

 このことを、創世記が記された時代背景をふまえて考えますと、イスラエルの人々は、ヨセフが、正しい振る舞いによって投獄されたことを、自分たちが新バビロニア帝国で捕虜とされている現実に照らして理解したと考えられます。このような歴史的な背景から、イスラエルの人々は、この物語によって、神が、捕虜である自分たちの歩みを司って下さっていることへの希望を与えられたと思われます。

 

2.人間の歴史を司っておられる神

 創世記の前半に記されているアブラハムやヤコブについての物語と同様に、ヨセフ物語には、イスラエルの歴史が事実にそくして記されているのではありません。特に、ヨセフ物語の背後には、エジプトの歴史の伝承があると考えられておりますので、この前の場面よりも、イスラエルの史実からいっそう遠くなっていると言えましょう。

この物語がエジプトの伝承に基づいていることは、この物語以降は、神が、人間的な出来事に全く介入していないように見えることにも示されています。しかし、創世記の著者は、伝承を用いつつも、「主がヨセフと共におられた」という言葉を繰り返し記すことによって、この物語の読者に対して、神が人間の歴史を司っておられることを強調して伝えていると言えましょう。このことから、アブラハムやヤコブ物語では、神が人間の歴史に「介入」しておられたことに対して、ヨセフ物語以降は、出来事の背後で神が「支配」されるという視点に変化していると考えられます。

 しかし、イスラエルの人々は、神が人間の歴史に直接介入されることから、歴史の背後で支配されるようになったという理解を次第に忘れ、神から離れた道を歩み始めました。それゆえ、神は、御子イエスを地上に遣わすことによって、再び、人間の歴史に直接的に「介入」されたのです。私たちはこのことをおぼえて、神が御子イエスを遣わされた御業を、聖書全体の歴史から理解するように努めたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

ヨセフが無実の罪で投獄された出来事には、私たちもまた、日々の歩みにおいて、世の人々から誤解を受ける出来事が示されていると思われます。私たちはこのことをおぼえて、神が、ご自身の目に適った者を必ず顧みて下さる恵みに希望と慰めを与えられると共に、ヨセフ物語の出来事が、主イエスが、罪がない方であるにも関わらず十字架に架けられた御業を遠く指し示していることを心に留めたいと思います。