巣鴨教会聖書研究会 3

2006年1月15日 渡辺善忠

 

1.36章に記されている系図の役割

36章は、長大な系図から成り立っているため、一見無味乾燥に思えるのではないでしょうか。しかし私たちは、この章が創世記全体の中で、イサクからヤコブに至るまでの古い世代をしめくくり、ヨセフ物語から始まる新しい世代への橋渡しをする大切な役割を担っていることを心に留めたいと思います。このことを、創世記が編纂された背後に存在した資料の視点で申しますと、35章までは古代の伝承が主であったことに対して、37章のヨセフ物語以降は、歴史的な検証に耐えうる資料が増えるという意味でも、この章は新旧交代の中間点であると考えられます。従って、36章に記されている系図は、古代史から有史への転換点をあらわしていると言えましょう。

また、36章にはエサウ(エドム)の系図が詳しく記されていることから、この章は、この後にイスラエルの主流となったヤコブの子孫たちの誠実さを示すために記されたと考えられます。振り返りますと、エサウの姿は、ヤコブ物語全体を通して丁寧に伝えられており、33章の和解の場面に至ると、それまでにも増して高潔に描かれています。このことから、創世記の著者は、神がヤコブを選ばれた御業をしめくくる場面で、エサウを丁寧に「見送る」ためにこの章を記したと言えましょう。私たちはこのことをおぼえて、神が、決して、イスラエル(=ヤコブ)の一家族のみを導いておられるのではなく、イスラエルの全ての人々を司っておられることを示されたいと思います。

2.創世記の著者の歴史観について

 エサウの子孫はこの後にイスラム教徒となったと言われていることから、この章に収められている系図は、現代においては、エキュメニカル(教派・異宗教の一致を促す運動)な視点を開く御言葉であると言えましょう。このことを、創世記が編纂された紀元前5〜6世紀の時代の状況に照らして考えますと、捕虜としてバビロニアに連れて行かれたイスラエルの人々は、異宗教に囲まれる中で、ユダヤ教の存在意義を確かめ、他の宗教について柔軟に理解するためにこの章を記したと考えられます。

私たちはさらに、エサウとヤコブが平和に別れた出来事が記されている35〜36章の御言葉には、ユダヤ教とイスラム教の人々が共存することへの願いが込められていることを示されたいと思います。確かに、創世記を始めとする旧約聖書の全ての書物には、イスラエルの一家族が選ばれ、その家族を基としてイスラエル民族が成立した歴史が連綿と記されています。しかし、創世記の36章までには、様々な宗教や民族が共存していた歴史が伝えられています。このことをふまえて、前述した資料の問題に戻りますと、古代の伝承が広い視点を持っていたことに比べて、歴史が書かれ始めた後は、程度の差はあれ、自民族の視点によって歴史が形成されて行ったと言えるのではないでしょうか。私たちはこのことをおぼえて、私たちの教会が受け継いでいる歴史や伝統を、広い視点で理解することの大切さを示されるべきでありましょう。

3.私たちへのメッセージ

 36章に記されている系図には、創世記の著者が、広い視点で歴史を理解していたことが示されています。私たちはこのことをおぼえて、宗教においても民族においても、異なった立場の人々について柔軟に理解することの大切さを心に刻みたいと思います。

「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」。(申命記23章8節)

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」。

(ヨハネによる福音書10章16節)