巣鴨教会聖書研究会 35章

2005年12月18日 渡辺善忠

 

1.35章の構成と役割

35章は、ベテルへの旅立ち(1〜4節)、神から「イスラエル」という名を与えられる(5〜15節)、ラケルの死とベニヤミンの誕生(16〜21節)、ヤコブの息子たちとイサクの死(22〜29節)の4つの部分から成っているため、複数の資料が背後にあると考えられます。また、本章の終わりでヤコブの息子たちの名とイサクの死が報告され、36章の始まりにエサウの系図が記されていることから、35章から36章の始まりには、世代の移り変わりが伝えられていると言えましょう。さらに、イサクの葬りの報告で、エサウとヤコブの名前が、兄エサウが先で弟ヤコブが後に記されていることには、この兄弟が和解したことが示されています(33章参照)。これらのことから、35章は、これ以前の出来事をまとめる意味で編纂された章であると考えられています。

この中で最も大切な出来事は、ヤコブ一族がベテルに移住する出来事です。なぜなら、創世記の著者は、28章に記されていた「ベテル」という場所を、34章において「汚された」(34章5、13、27節)ことを清める(35章2節)場所として記すことによって、ベテルを、定まった祭儀を捧げる場所として伝えているからです。このように、定まった場所で祭儀が捧げられることには、様々な地を転々としてきたイスラエルの人々が、段々とカナン地方に定住して行った出来事が反映されていると考えられます。

 

2.イスラエルにおける祭儀の始まりについて

 35章にいくつかの宗教的祭儀が記されていることから、この章には、古代において宗教的な中心地であったベテルへの巡礼の旅が反映されているのではないかと思われます。私たちはこのことを、特に、1節の「ベテルに上る」という御言葉によって示されたいと思います。なぜなら、「上る」という御言葉は、宗教や政治の中心地に行くという意味の言葉であるからです。このことから、古代において、ベテルは、イスラエルの人々の信仰の中心地として考えられていた可能性が高いと思われます。また、ヤコブが、ベテルに赴いた家族の者や一緒にいる全ての人々に対して、「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」と命じた言葉には、イスラエルの人々がベテルに赴く時には、異教的な要素を極力取り除いてから巡礼に出かけた習慣が反映されているのではないかと考えられます(2節)。

 私たちはさらに、衣を脱ぐ(2節)という言葉が、「脱ぎ捨てる」という意味であり、この言葉がやがて、初代教会において「衣服を脱いで水に入り、洗礼を受ける」と理解されたことによって、異教的な要素を脱ぎ捨てて洗礼を受けることの大切さを示されたいと思います。なぜなら、私たちも、礼拝において身を清めることによって、神の民として歩む者とされるからです。(エフェソの信徒への手紙4章22〜24節参照)

 

3.私たちへのメッセージ

 この章には、イスラエルの人々が、カナン地方に定住して祭儀を守った出来事が反映されています。私たちはこの御言葉によって、礼拝を通して神に清められる(=神のものとされる)ことと共に、神が今も、「教会」という信仰共同体を通して私たちを守り導いて下さる恵みに信頼して歩む者とされたいと思います。