巣鴨教会聖書研究会 33章

2005年9月18日 渡辺善忠

 

1.再会の様子

 ヤコブは、儀式を思わせるような所作と共に兄エサウと再会します。当時の聖書外の資料には、エジプト王パロに謁見する者が、「七度地にひれ伏した」(3節)記録があるため、この場面は、王宮のしきたりに基づいているとする説もあります。この章には、神が介入しておられることは明らかにされておりませんが、創世記の著者は、二人の再会の様子を儀式のように描くことによって、この場面を神が司っておられることを暗示していると思われます。文学的な観点では、ルカ福音書15章に記されている放蕩息子が帰宅する場面は、この章の影響を受けていると思われます(4節参照)。

 また、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」(10節)という御言葉にも、神が二人の再会を導いておられることが示されています。なぜなら、この御言葉には、ヤコブが、極度に恐れていた兄に面したその時に、兄の顔に神の神聖さを見出したことが示されているからです。振り返りますと、32章の後半には、ヤコブが神と格闘した出来事が記されておりましたが、この闘いには、ヤコブとエサウとの闘いが象徴されておりました。このことから、創世記の著者は、32章では神の中にエサウを、そして33章ではエサウの中に神の働きを織り込んでいると思われます。私たちはこの二つの出来事を共に理解すると同時に、33章の場面では、神が兄エサウを通して、ヤコブに赦しと祝福を与えて下さる恵みを心に留めるべきでありましょう。

 

2.ヤコブとエサウは本当に和解したのか?

 この場面には、ヤコブとエサウが和解した出来事が伝えられているように思えます。

しかし、彼らは本当に和解したのでしょうか?

 33章を読み進みますと、一見、ヤコブとエサウは仲直りをしたように思えるかもしれません。しかし、「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから」(12節)という言葉には、エサウが心からヤコブを赦す思いが溢れているのに対して、ヤコブはこの申し出を丁重に断っています(13〜14節)。このやり取りには、ヤコブがエサウに対する警戒を緩めていないことが示されています。また、ヤコブが、エサウが住んでいたセイルにではなくスコトに向かったことからも、ヤコブがエサウに心を許していないことは明らかです(16〜17節参照)。私たちは、これらの出来事によって、ヤコブとエサウが、本当に和解したのではないという現実を直視すべきでありましょう。

この出来事を私たちの歩みに照らして考えますと、ヤコブとエサウの姿には、私たちが、許しと欺き、約束と警戒の狭間を歩まざるを得ないことが示されているように思えます。私たちはこのことから、全ての人間がヤコブのような破れを持っているゆえに、神が御子イエスを遣わし、私たちの交わりを執り成して下さっている恵みを示されたいと思います。ヤコブとエサウが和解していない出来事によって、私たちの交わりが、神の和解の御業に支えられていることを、心に刻む者とされたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

 ヤコブとエサウの姿に示されているように、全ての人間は、本当の意味では理解し合うこと、許し合うことができない存在ではないでしょうか。33章の御言葉は、そのような私たちに対して、神が私たちの交わりを執り成して下さる御業に信頼することの大切さを示しています。このことをおぼえて、神が御子イエスの執り成しによって私たちの交わりを築いて下さる恵みに信頼して歩む者とされたいと思います。