巣鴨教会聖書研究会 32章

2005年8月21日 渡辺善忠

 

1.ヤコブとエサウの再会

 28〜31章にヤコブとラバンの物語が挿入されているため、32章には、27章の文脈を受け継ぐ内容が記されています。この章で伝えられているヤコブの心情は恐れと計算に満ちているため、読者をも不安な気持ちに誘うのではないでしょうか。この意味で、32章を物語として読む時には、サスペンスのような印象を与えられることと思います。

 しかし、創世記の著者は、この章においても神がヤコブの歩みを司っておられることを示しています。私たちは、神がヤコブの歩みを導いておられることを、1〜2節の神顕現、9〜12節の神への執り成しを求める祈り、22〜32節の神との格闘の場面によって示されたいと思います。1〜2節は神がヤコブを護衛することを、22〜32節はヤコブがエサウと再会する前に神と出会うことが象徴されています。編集史の研究によりますと、これらの場面はいずれも、元来独立していた物語が収められたものだと考えられています(詩編34編2〜8節参照)。32章には、卑屈に思えるようなヤコブの計画が繰り返し伝えられていますが、創世記の著者は、この中に神顕現の記事を織り込むことによって、物語として伝えられていたヤコブとエサウの再会の出来事の根底において、神自らが二人の再会を司っておられることを示していると言えましょう。

 

2.「イスラエル」という名を与えられたヤコブ

 「何者か」と格闘したヤコブは、戦いに勝った後に祝福を求めました。ヤコブはここで、エサウと再会する時の安全はもとより、再び土地や子孫を与えられるという具体的な願いとして祝福を求めたに違いありません。しかし、ヤコブの期待に反して、神がヤコブに与えたのは、「イスラエル」という名称でした。この名は、一般に、「神が支配して下さる」「神が護り導いて下さる」という意味をあらわす言葉が語源だと考えられています。このことから、創世記の著者は、この場面でヤコブに「イスラエル」という名を帰すことによって、神がヤコブとその家族を新しい共同体として呼び出されたことを示していると考えられます。この意味を、創世記が現在の形に編纂された歴史に照らして考えますと、創世記の著者は、「イスラエル」という名称によって、戦争に負け、捕虜としてバビロンに連れて行かれたイスラエルの人々に対して、神が、イスラエルを新しい存在として呼び出して下さり、再びカナンの地に導いて下さる希望を与えていると言えましょう。私たちはこのことから、ヤコブに対して新しい可能性が開かれていることを象徴する「イスラエル」という名称が、信仰における新しい招きをあらわす言葉であることと共に、ヤコブが神から傷を与えられたことから、神の祝福を受ける際には、痛みを伴う場合もあることを心に刻むべきでありましょう。

 

3.私たちへのメッセージ

 私たちにも、この場面のヤコブのように、恐れと悩みの内に神と格闘せざるを得ない時があるのではないでしょうか。32章の御言葉は、そのような時に、私たちが「何者か」(25節)と格闘しつつ、その存在が神であることがすぐにはわからないことを示していると言えましょう。私たちはこのことを心に留めて、恐れに満たされている時には、神の御前に自らをさらけだして御救いを祈り求める者とされたいと思います。