巣鴨教会聖書研究会 創世記271〜45節

2005年4月17日 渡辺善忠

1.この物語の主人公は誰か?

 27章は、25章19〜34節の出来事が展開している章であると考えられます。なぜなら、この二つの章はいずれも、約束の伝達と相続を主題としているからです。私たちの視点でここに記されている出来事を考えるならば、計略によって長子の権利と祝福を奪い取ったリベカとヤコブの狡賢さに醜悪な気持ちを抱くかもしれません。しかし、神がこのような方法でヤコブに祝福を受け継がせたことは事実なのです。私たちはこの出来事を前にして、人間的な「解釈」によって、この出来事を安易に理解することの愚かさを顧みつつ、27章の御言葉の意味を示されたいと思います。

 まず、この物語は一見、リベカとヤコブが計略を用いて事を進めているように見えますが、この物語の本当の「主人公」は神ご自身であると考えられます。なぜなら、この物語では、古代社会において、約束を継承するのは長子であった慣習があったにも関わらず、そのことが神によって破られているからです。このことを、創世記が記された背景をふまえて考えますと、創世記の著者は、古代において慣習であった長子権の相続が、必ずしも自明のものではないことを示すことによって、神が人間の歩みを司っておられることを告げています。また、父親イサクがエサウに祝福を受け継がせたいと希望したにも関わらず、神がその希望を破られたことにも、約束を継承させるのが、神の御業であることが示されています。この意味で、27章に記されている全ての出来事を司っておられるのは神ご自身であり、その主題は、私たち人間の力や考えに関わらず、神がご自身の意思の貫徹なさることであると言えましょう。

 

2.祝福権の継承について

 27章の御言葉は、祝福権の継承が、古代において重大であったことを伝えています。

このことは、イサクが、一度与えた祝福を取り消すことができなかったことに示されています。また、25〜29節に伝えられている、食事を伴った祝福には、古代における祝福権の継承方法が反映されています。ここに見られる祝福権の継承方法は、形を変えながらも、過越の食事に伴う祝福に受け継がれました。私たちはこのことから、礼拝における「祝祷」(=祝福)が、古代の祝福に遡ることを示されたいと思います。

 私たちはさらに、ヤコブが、人間的な価値によるのでなく、ただ神の御心によって祝福を受け継ぐ者とされたことを心に刻むべきでありましょう。このように、人間的に価値なき者が祝福を受けるという考えは、新約聖書にも受け継がれています(ルカによる福音書14章12〜24節)。私たちはこのことから、私たちもまた、何ら功がないにも関わらず、教会に招かれ、神から祝福を与えられている恵みを示されたいと思います。そのことに加えて、この物語には、祝福を与えられた人間が、神から受けた務めをまっとうすることの大切さが示されています。ヤコブは、祝福を得た後に、危険を伴う道を歩むこととなりましたが、このことには、神から祝福を受けることに、神の民として担うべき責任が伴うことが象徴的に示されていると言えましょう。私たちはこのことをおぼえて、神からの祝福を感謝して受けると共に、祝福を与えられた者として、神から与えられた務めをまっとうする者として歩んでまいりたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

 27章の出来事は、神の御心と私たち人間の考えに決定的な隔たりがあることを告げています。私たちはこのことをおぼえて、聖書の御言葉と聖霊の導きによって、神の御心を求めつつ歩むことの大切さを示されたいと思います。またそのことと共に、私たちを、祝福を受ける共同体(=教会)として招いて下さっている神の御業を信じつつ、与えられた祝福を次の世代に継承できるように祈りつつ歩んでまいりましょう。