巣鴨教会聖書研究会 創世記2746節〜28章

2005年5月15日 渡辺善忠

1.ヤコブの旅立ちの記事について

 27章46節〜28章9節には、ヤコブがパダン・アラムに旅立った出来事が記されていますが、この部分は元の物語に後から挿入されたと考えられています。本来の物語が、27章45節から28章10節に続くことは、挿入された部分を省いたほうが自然であることに加えて、挿入部分の布石である26章34〜35節が物語の文脈から逸れていることからもわかります。この理由と文体から、挿入された部分は、創世記が編纂された捕囚時代(紀元前六世紀前後)に記されたと考えられます。この部分は、イサクの妻を探すためにアブラハムの僕が旅に出た24章の記事と似ているため、創世記の著者は、24章を土台にしてこの記事を編作した可能性が高いと思われます。

このことをふまえて、ヤコブが旅立った出来事の意味を考えますと、創世記の著者は、ヤコブが、ユーフラテス川の上流にあるパダン・アラム地方から妻を迎える出来事を記すことによって、イスラエルの人々が、捕囚されていた周辺地域の人々と結婚することを間接的に肯定していると言えましょう。このことに対して、エサウが、  カナンに先に住んでいた民族の女性と結婚したことが批判的に記されていることは、イスラエルの人々とカナンの先住民族との間に争いがあったためだと考えられます。

また、28章9節には、エサウも後にアブラハムの親族から妻を迎えた出来事が記されていることから、イスラエルの人々は、信仰を受け継ぐためには、カナンの先住民族ではなく、東側の地域の人々と結婚するほうが望ましいと考えていたと思われます。

2.ヤコブの夢と礼拝

 28章10節〜22節の御言葉は、諍いに満ちたヤコブの物語から離れて、神とヤコブが対峙した出来事を伝えています。創世記の著者はこの出来事を、視覚的体験(12節)、約束の言葉(13〜15節)、祭儀的応答(16〜22節)の三つの出来事によって語り伝えています。これらの出来事には、古の人々が神と出会った場で礼拝を捧げた古事が反映されていると考えられます。12節に記されている視覚的な体験の背後には、原始的な神理解があると思われますが、後期ユダヤ教(紀元前後の時代)の資料にも、神と人を結ぶ存在が天と地を行き来するという理解が見られることから、神と人を結ぶ 存在は、ユダヤ教で長く受け継がれていた神理解であると言えましょう。新約聖書に散見される「天使」は、この理解を受け継いだ存在であると考えられます。

 ヤコブが神と出会った出来事が、兄エサウからの「逃亡」という不本意な事態の中で起こったことには、神が思いがけない場所で私たちと出会って下さる恵みが示されています。私たちはこの出来事を心に留め、神が私たちと出会って下さる時に、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)とヤコブが言った言葉に導かれて、礼拝を捧げることの大切さを示されたいと思います。

 また、イスラエルの人々にとって「ベテル」は礼拝の中心地の一つでした。このことから、創世記の著者は、ベテルが重要な町であることを示すためにこの地名を記したと考えられます。私たちはこのことから、礼拝を捧げる場所(=教会)が与えられている恵みをおぼえて、礼拝によって神に感謝を捧げたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

27章45節〜28章10節の御言葉には、イスラエルの人々の周辺民族に対する理解が反映されています。私たちはこの御言葉によって、信仰を守ることをふまえて家族を迎え入れることの大切さと共に、神が全ての人々を分け隔てなく教会に招いて下さっている恵みを、広い視野で理解する者とされたいと思います。

 また、ヤコブが思いがけない場所で神と出会った出来事をおぼえて、神が私たちの全ての歩みにおいて、「わたしたちと共にいて下さる」(20節参照)恵みを心に刻みつつ、信仰の道を歩んでまいりましょう。