巣鴨教会聖書研究会 創世記25

2005年2月20日 渡辺善忠

1.アブラハムの死と埋葬

 25章1〜5節には、死を目前にしたアブラハムが、財産を分ける様子が伝えられています。創世記を振り返りますと、アブラハムはもともと、家族問題を上手にさばける性格ではありませんでした。しかしこの箇所では、慎重な方法で財産を分け、争いを避けているアブラハムの姿が伝えられています。このことから、創世記の著者は、齢を重ねたアブラハムの世知に長けた姿を描いていると思われます。また、「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」という御言葉には、波乱に満ちたアブラハムの生涯が、神の祝福によって支えられていたことが示されています。イスラエルの人々は、175年という長寿を与えられ、良き葬りの場所を持ち、多くの家族に囲まれながら安らかに死を迎えたアブラハムに、信仰者が召される時の希望的な姿を見たのでありましょう。このことを私たちに身近なところで考えるなら、近親の人々に囲まれて死を迎えることはもとより、教会という信仰の家族に見守られて召されることにもつながるのではないでしょうか。私たちはこのことから、信仰者として死と埋葬の備えをすることの大切さを示されたいと思います。

 

2.エサウとヤコブ

ヤコブ物語は、別々に伝えられた数種類の資料を基に編纂されています。この物語には、創世記で最も俗悪な人間の姿が描かれていると言えるかもしれません。なぜならここでは、どのエピソードにも、ヤコブが粗野な人間で、宗教的にも道徳的にも道を踏み外している人物として語られているからです。アブラハム物語が、神とアブラハムとの関わりを中心に展開していることに対して、ヤコブ物語には、妻や伯父や兄との争いが連綿と記されていることから、この御言葉には、人間の現実的な諍いが浮き彫りにされていると言えましょう。創世記の著者は、争いに満ちたヤコブの生涯を赤裸々に伝えることによって、神の御心が、私たち人間の私利私欲と複雑に絡み合っていることを告げています。ヤコブが引き起こす様々な問題には、私たち人間が、自分の力で本当の交わりを築くことができない愚かさが示されているのです。

ヤコブ物語はまた、神の選びが、平和だけではなく争いを引き起こすことを示しています。このことから創世記の著者は、この物語によって、神の選びについて考えることを促していると思われます。なぜなら、創世記の著者は、争いに満ちたヤコブの歩みを語り伝えることによって、神がヤコブを選んだことの意味を問いかけているからです。私たちはこのことから、神がご自身の考えによって選びをなさり、何の功もない私たちもご自身の民として招いて下さった恵みを示されたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

 ヤコブの波乱に満ちた生涯には、諍いに満ちた私たちの現実の姿が象徴されています。このことを逆の視点でとらえますと、この物語には、もしも私たちが争いに満ちた現実から目を逸らすならば、神との出会いはないことが示されているのではないでしょうか。私たちはこの意味で、ヤコブの生涯に照らして自らの姿を顧み、悩みや苦しみの中にご自身を示して下さる神の働きを信じる者とされたいと思います。

 また、ヤコブが選ばれることを、新約聖書の御言葉によって理解するならば、この物語には、「先にいる多くの者(=長子エサウ)が後となり、後にいる多くの者(=弟ヤコブ)が先になる」(マタイ福音書19章30節)という御言葉が最もふさわしいと言えましょう。私たちはこの御言葉からも、人間の思いを超えた神の選びの不思議さを示されるべきでありましょう。また同時に、ヤコブとエサウの不和が争いから和解(33章)へと進んで行くことに、神の約束と祝福とを見出す者とされたいと思います。