巣鴨教会聖書研究会 創世記24章

2005年1月16日 渡辺善忠

♪通読が長すぎる場合は、1〜34節と48〜67節を輪読して下さい

1.イサクの結婚

 この物語は、1〜10節(アブラハムと僕)、11〜27節(僕とリベカ)、28〜61節(僕とラバン)、62〜67節(イサクとリベカ)の四つの場面によって成り立っています。

 この物語は、場面の展開と生き生きとした文体から、小説を読んでいるような印象を与えられるのではないでしょうか。しかし創世記の著者は、この物語を単なる読み物として記しているのではなく、イサクが結婚に至る出来事が神の御業によることを伝えようとしているのです。私たちは特に、「主がわたしの主人を大層祝福され」(35節)という御言葉と、「わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました」(48節)という御言葉によって、この物語の背後に神の導きがあることを示されたいと思います。この物語の背景にはまとまった形の古い伝承が存在していたと考えられるため、創世記の著者は、結婚に関する古代の伝承を用いつつ、イサクが結婚した出来事を神の救いのご計画の中に位置づけていると言えましょう。

 また、リベカの兄ラバンの「主に祝福されたお方」(31節)、「このことは主の御意思ですから」(50節)という言葉には、アブラハムの故郷の人々がすでに信仰者であったことが暗示されています。この言葉から、創世記の著者は、パレスチナ地方に住んでいたカナン人よりも、ヨルダン川の東側の人々に信頼を寄せていたのではないかという推測も見られます。しかし私たちは、この御言葉を、神の導きを信じ受け入れる全ての者が、新しいイスラエル(=教会)として招かれているという意味で理解するべきでありましょう。なぜなら、アブラハムに遣わされた僕が、日常的な出来事の内に神の導きを見出そうとしたことに加えて、ラバンが神の御心を従順に受け入れた姿には、信仰者が神の御業を信じ受け入れる姿が象徴的に示されているからです。

 

2.神の導きを見出しつつ歩む

 この物語は私たちに、信仰によって歩むことの意味を教えています。私たちは特に、現代において、いわゆるご利益主義によって人々を魅せようとする宗教が多いことを顧み、この物語によって、安易な信仰理解への警鐘を聞くべきでありましょう。なぜならこの物語は、聖書に証しされている神が、私たちの全ての歩みを司って下さり、ご自身の救いのご計画に招いて下さる恵みを語り伝えているからです。

この物語はまた、信仰によって積極的な歩みをすることを勧めています。私たちはこの物語が決して「サクセスストーリー(成功物語)」ではなく、日常の中に神の御業を見出し、神への信頼を持ちつつ歩むことへの勧めであることを心に刻むべきでありましょう。私たちの現実の歩みにおいては、むしろ、物事がうまく進まないことのほうが多いように感じられるかもしれません。しかし私たちは、「物事はうまく行かないものだ」という否定的な考えではなく、日常の出来事を信仰による肯定的な理解で受け入れることによって、おおらかに生きる者とされたいと思います。

私たちはさらに、アブラハムの僕の「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください」(12節)という祈りの中の「どうか、今日」という御言葉によって、「今この時に」神の御旨によって導かれることへの切なる願いを示されたいと思います。私たちはこの祈りの言葉によって、神がどのように私たちの歩みを導いて下さるかということについて、聖書の御言葉と祈りによって見分ける「知恵」を与えられることの大切さを示されたいと思います。

神が私たちの歩みを司って下さり、ご自身の救いのご計画に招いて下さっている恵みを教会として受け入れると共に、全ての人々の歩みを導いて下さる神の御業を多くの方々が受け入れることを祈り合いつつ歩んでまいりましょう。