巣鴨教会聖書研究会 創世記18章

2004年6月20日 渡辺善忠

1.イサク誕生の告知

 17章の整った文章から一転して、18章は再び素朴な文体で記されているため、この章は古い伝承を素材として書かれていることがわかります。18章を読み進むと、アブラハムと接した人が1節では「主」、2節では「3人」、13節では再び「主」と記されていることから、この章は複数の伝承に基づいて構成されていると考えられています。

物語の中心はイサク誕生の告知です(10節)。13〜17章にかけては神の約束と、神への信頼から離れようとするアブラハムとサラの姿が記されていましたが、創世記の著者は18章においても、子供を与えるという神の約束を信じることができないアブラハムとサラの姿を率直に伝えています(11〜12節)。アブラハムはここでも不信の人間のモデルとして描かれています。私たちはこのことをおぼえて、神が私たちの知恵や常識を超える救いの御業をなさって下さる恵みを示されるべきでありましょう。

 主は私たちの不信に対して、圧倒的な問い掛けをもって迫ってこられます(13〜14節)。私たちは「主に不可能なことがあろうか」という御言葉によって、主の御手に信頼して歩むことの大切さを示されたいと思います。10節から15節にかけての神とアブラハム・サラとのやり取りは緊張に満ちていますが、この御言葉は、神が私たちの態度に関わらず、約束を実現して下さる方であることを告げ知らせています。私たちは特に、サラが「わたしは笑いませんでした」(15節)と自らを隠していることから、神の御前に自分を取り繕うことの愚かさを顧みるべきでありましょう。

2.ソドムとゴモラの物語

 18章16節から19章38節に記されているソドムとゴモラの物語は、イサク誕生の告知とは別の伝承に属していると考えられています。イサク誕生の告知という喜びの出来事の後にこのような暗澹とした記事が収められていることについては様々な解釈がありますが、この物語は、神の救いが成就するまさにその時においても、地上に悪が満ちていることを示していると考えられます。ソドムがどのような悪に満ちていたのかということは推測の域を出ませんので、私たちは、ソドムという町が神の秩序に反抗する世界の象徴であることを示されたいと思います。アブラハムとロトは、まさにそのような無秩序な世界のただ中で生きていたのです。アブラハムはこの物語では一転して、神とソドムを執り成す信仰者として伝えられています。このことは、全ての人間が信仰と不信の狭間を生きていることを示しているのではないでしょうか。

アブラハムと神との「駆け引き」(23〜33節)には、他者のために執り成すことの大切さが示されていると共に、神が私たちの祈りに応えて下さる方であることが告げられています。50人、45人、40人…と段々と人数が減っていく表現には、伝承の作者が文学的に優れた手法を持っていたことがうかがえます。ここには「一人でも義人がいればこの町を滅ぼさない」という神の恵みが示されていると言えましょう。

私たちはこのことを新約の視点から理解し、御子イエスの十字架によって全ての人々の罪を赦して下さった神の御業を信じ受け入れる者とされたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

@神は私たちの態度に関わらず約束を成就して下さる

 聖書の御言葉は、私たちに準備があるなしに関わらず、神が救いの御業をなさって下さることを繰り返し告げ知らせています(マルコ福音書10章27節参照)。私たちの思いを超えて救いの御業を成就して下さる神の御手に信頼して歩んでまいりましょう。

A救いに目を向けることの大切さについて

 創世記の著者は、神がソドムを滅ぼされる出来事の前に、「イサク誕生」という神の救いの知らせを告げています。私たちはこのことから、神が私たちを救って下さる知らせ=福音に目を向けて歩むことの大切さを示されたいと思います。