巣鴨教会聖書研究会 創世記16〜17章

2004年5月16日 渡辺善忠

1.アブラハムとサラの逡巡(16章)

 アブラハムが迷いの内に歩んでいたことが13〜15章に記されていたことに加えて、16章ではサラも神の約束への信頼から離れてしまったことが伝えられています(16章1〜5節)。この記事には、エジプトにおけるアブラハムの振る舞いと同様に、自分の考えで問題を解決しようとしたサラの愚かな姿が描かれています(12章10〜20節参照)。

アブラハムはサラの考えに従い、側女によって子供を授かりますが、この方法はハガルとサライの確執という新たな問題を引き起こしました。アブラハムとサラが選んだ方法は古代の慣習であったので、これを責めることはできませんが、この後のアブラハムとサライ、ハガルの確執には、世知に頼って問題を解決しようとする時には人間関係が破綻するという警告が示されていると言えましょう。しかし神はこの問題に対して、救いの手を差し伸べて下さいました(16章8〜10節)。神がハガルに御使いを遣わした出来事には、私たちが自分の考えによって人間関係を破綻させてしまった時にも、神が必ず救いの御手を差し伸べて下さる恵みが示されています。

旧約聖書には、詩編をはじめとして「神よ、いつまでこの状態が続くのですか?」という嘆きの叫びが随所に見られますが、16章の出来事にも同様の嘆きが根底にあると言えましょう。なぜならアブラハムやサラは、神の約束を待ちきれずに何度も道を踏み外してしまっているからです。私たちはこのことをおぼえて、16章に記されている出来事によって自らを顧みると共に、神の約束を待ちきれない私たちの弱さにも関わらず、救いの御手を差し伸べて下さる神の恵みを思い起こすべきでありましょう。

2.神は全ての者をご自身の民とされる(17章)

 16章と17章には全く異なった文体が用いられていることから、16章は古くからの伝承に基づいて編集されたものであり、17章は創世記全体が編纂された時代に記された部分であると考えられています。17章が16章と異なった文体で記されていることは、前半の1〜16節の神の言葉が荘厳な言葉で記されていることからも明らかです。

この中で要となる言葉は、「わたしは彼らの神となる」(8節)という御言葉です。イスラエルの人々は、バビロニアに捕囚されていた時代において、「わたしは彼らの神となる」という御言葉によって、神が全ての人々を司って下さる方であることに希望を与えられました。私たちはこのことをおぼえて、この御言葉によって、神が私たちを含めた全ての者を信仰の民として下さる恵みを示されたいと思います。

 17章9〜14節には契約とそれに伴う割礼に関する記事が記されています。割礼はエジプト人が始めた慣習だと考えられていますが、イスラエルの人々がどの時代にこれを受け継いだのかということについては特定できません。割礼が神学的な意味を強く持つようになったのはバビロニアの捕囚時代でしたが、その後数百年を経て、初代教会は、割礼に代わって洗礼を信仰のしるしとするようになりました。私たちはこのことをおぼえて、洗礼が新しい契約のしるしであることを心に刻みたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

@神への信頼に繰り返し立ち返る

「神よ、いつまでこの状態が続くのですか?」という嘆きが私たちの嘆きの言葉でもあることをおぼえて、聖書の御言葉によって神への信頼に立ち返りましょう。

A笑ったのは誰か?

 イサクの名は「彼は笑う」(17章19節)という意味でした。私たちはこの名によって、アブラハムとサラが不信の笑いをしたことだけにとどまらず、神が祝福の笑みをもって私たちの歩みを導いて下さる恵みを示されたいと思います。