巣鴨教会聖書研究会 創世記15章

2004年18日 渡辺善忠

1.アブラハムの葛藤と決断

 神はアブラハムに土地と子孫を与える約束を告げられました(12章7節)。しかし この約束は15章に至ってもかなえられていませんので、15章の始まりには、神の   約束を信じつつも、神の御心が自分の考えと異なっていることに対してアブラハムが葛藤している姿が示されていると言えましょう(1〜4節)。アブラハムは、12章では世知に頼った考えによって問題を解決しようとしましたが、15章においては神の  御心への信頼に導かれました。私たちはこのように、神の約束への信頼と迷いの後に決断に導かれたアブラハムの姿によって、この信仰の父祖が私たちと同じ人間的な 葛藤の内に歩んでいたことを示されるのではないでしょうか。確かにアブラハムは 聖書の随所で「信仰の父」として仰がれている存在です。しかし、私たちは決して   アブラハムを神聖化するのではなく、良い面も悪い面も併せ持っていた信仰の先達として理解することによって、神の約束が守られていないように思える時においても、神への信頼を持ち続けることの大切さを示されたいと思います。

この意味で、13〜14章に引き続き、この章においてもアブラハムが神への信頼を  持ち続けたことが最も大切なメッセージであると言えましょう。

2.聖書全体に示されているアブラハムの信仰

 15章の御言葉の中で最も大切な箇所は「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の  義と認められた」という御言葉です(6節)。15章には2箇所に古代祭儀的な背景が  あると考えられています(9〜10節、17節)。この箇所には原始宗教の痕跡があると思われますが、神がアブラハムに信仰を与えて下さった出来事には、旧約時代の信仰の礎が神への素朴な信頼であったことが示されています。この意味で、アブラハムが神を信じた出来事は、旧約聖書に記されている信仰の基であると言えましょう。

 私たちはさらに、6節の御言葉に示されているアブラハムの信仰が、パウロから  ルター、カルヴァンに至る信仰義認の礎となったことを示されたいと思います。なぜなら、アブラハムが神の御言葉としるし(4〜5節)によって信仰を与えられた   出来事は、「信仰によって義とされる」というプロテスタント教会の信仰の基である からです。私たちはこのことをおぼえて、神がアブラハムに信仰を与えて下さった  出来事を、新約聖書の御言葉と共に理解するべきでありましょう。

☆ローマ書4章、ガラテヤ書3章、ヘブライ書11章参照

真に神は、創世記だけにとどまらず、聖書全体の御言葉によって、私たちの日々の歩みにおいても、御子イエスの十字架と復活の救いによる新しい生命を創造して  下さり、神を礼拝する場を与えて下さる約束を告げておられるのです。

3.私たちへのメッセージ

神はアブラハムに繰り返し約束を語って下さることによって、ご自身の救いの  御業と約束に信頼を持ち続けて歩むことの大切さを示して下さいました。

  私たちはこのことをおぼえて、神が創造の御業によって私たちに日々新たな生命を与えて下さることを感謝して受け入れ、聖書の御言葉に記されている神の救いの  御業を、教会として宣べ伝え続けることがゆるされますように祈りを合わせましょう。