巣鴨教会聖書研究会 創世記3章

2003年7月20日 渡辺善忠

1.エデンの園でのアダムとエバ

 創世記2章15節には、神が人をエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたことが記されています。神はこのことをアダムに命じられましたが、アダムのパートナーとしてエバを創られたので、男と女は等しく「園を耕し、守る」という務めを託されたと考えられます。ここに記されている「園」には「人間の共同体」が象徴的に示されています。しかし3章に進んで神が不在になった時に、二人は共同体において託された務めを忘れ、蛇の誘惑に陥り、食べることを禁じられていた園の中央の木から果実を取って食べてしまいました。この出来事には、私たちが、神から託されている本来の務めを忘れて、自分の考えで歩むことによって神から離れていってしまうことが示されていると言えましょう。また、ここで二人を誘惑する存在として「蛇」が登場することには、「蛇」がカナンやエジプトで神として祭られていたことに対して、イスラエルの神こそが善悪を司られる方であることを示す意図があったと思われます。

 しかし神は、ご自身から離れて行く者をそのままにはしておかれません。私たちは、3章21節の「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」という御言葉から、私たちが神から離れた道を歩んでいるにも関わらず、神が私たちを守って下さる恵みを示されたいと思います。さらにこの出来事には、自分で「恥ずかしさ」(=罪)を完全に覆うことはできない私たちに対して(3章7節)、私たちの罪を覆って下さる神の救いの御業が暗示されていると言えましょう。

2.「命の木」と「善悪を知る木」について

エデンの園の中央にあった「命の木」と「善悪を知る木」は、別々の伝承を背景に持っていると考えられています。まず「命の木」は、元々は政治的な王に関わるものであったようで、王が民の命を司り、民を養う力を神から託されているという考えが背景にあったようで、箴言の中にもこれと似た言葉があります(箴言11章30節=正しさの象徴、箴言13章12節=望みがかなえられることの象徴)。しかし「善悪を知る木」は、聖書の中では創世記2〜3章以外にはどこにも記されておりませんので、この木の象徴的な意味は不明です。この二つの木は俗説では「リンゴの木」とされていますが、創世記の著者はこれらの木に特別な意味を持たせたのではなく、神が食べてはならないと命じた出来事を強調していると思われます。

3.私たちへのメッセージ

 ・私たちは神から離れて行こうとする存在である。

   3章においては、私たち人間が本来神から離れて行こうとする存在であることが語られていることから、聖書が語る「原罪」とは、全ての人間が持っている「神から離れようとする心」のことであると考えられます。

・私たちは自分の力では本当の交わりを築くことができない存在である。

   私たちが自分の力で交わりを築くことができないことは、神が不在の時に、禁じられていた果実を食べてしまったことと、その罪を他者になすりつけるアダムとエバの姿に示されています。私たちはこのことから、神と共に生きる時にはじめて本当の交わりを築くことができることを示されたいと思います。