巣鴨教会聖書研究会 出エジプト記12章

2008年1月27日 渡辺善忠

 

1.過越の食事

 12章には、神がモーセに語った言葉(1〜20節)と、モーセが長老たちに語った言葉(21〜27節)によって、過越の祭儀の方法が伝えられています。モーセの言葉は神の言葉が要約された内容であるため、この二つは別の資料が用いられていると考えられています。資料を研究する際には、簡素な内容のほうが古いという原則があるため、モーセが長老たちに語った言葉のほうが古い資料に基づいていると思われます。
 また、ここには複数の家畜が記されていることから、過越の起原は遊牧民の儀礼であったと考えられています。遡りますと、3章18節には「どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」と記されておりました。このように、犠牲を捧げる素朴な祭儀が出エジプトの場面と離れた箇所に記されていることから、過越の起原は遊牧民の儀礼であったと考えられています。
 また、出エジプトの直前に過越の方法が記されていることには、後のユダヤ教にとって大切な意味がありました。なぜなら、祭儀と救いの出来事が共に記されていることには、イスラエルの人々が、祭儀の場で神の救いが起こると考えていた理解が示されているからです。私たちはこの意味をおぼえて、礼拝が、神の救いの御業を思い起こす場であると共に、神の御業が起こる場であることを心に刻みたいと思います。

2.災いと新しい生命

 29節から51節には、神がエジプト人の初子を撃たれ、イスラエルを救った御業が伝えられています。13節にはこの出来事の預言が記されておりますが、「災い」という言葉は「災害」という意味であることから、出エジプト記の著者はこの言葉によって、神がエジプト人の初子を殺したのではなく、自然の災害が起こったことを示していると考えられます。この意味を現代的に理解するならば、この出来事は、幼児を突然死に至らせる伝染病が発生したと解釈することが適切であると思われます。
 また、初子が死んだ出来事は、ファラオに対する裁きの意味がありました。なぜなら1章では、ファラオがイスラエルの男の子を殺すように命じた出来事が伝えられていたからです(1章16節参照)。また、この出来事のもう一つの意味として、出エジプト記の著者はこの場面によって、エジプト人の生死を司っているのが、ファラオではなくイスラエルの神であることを示していると考えられます。
 さらに、イスラエルの人々が、「金銀の装飾品や衣類」で着飾ってエジプトを出発したことには、奴隷から解放されて、神から新しい生命が与えられた恵みが象徴されていると思われます。私たちはこの意味を心に留めて、私たちも神から自由を与えられ、神の恵みを身にまとって歩む者とされている幸いに感謝を捧げたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

 ユダヤ教の人々が過越の祭儀によって出エジプトの出来事を伝え続けたことから、私たちは、礼拝で主の十字架と復活を伝え続けることの大切さを心に留めたいと思います。また神が、主イエスの復活によって私たちに新しい生命を与えて下さっている恵みに感謝しつつ、自由な者として信仰生活を生き生きと歩んでまいりましょう。