巣鴨教会聖書研究会 出エジプト記10章〜11章

2007年12月16日 渡辺善忠

 

1.災いの意味

この場面では新たな災いが加わっていることから、ファラオが頑なになるほど神の戒めが増すことが強調されていると考えられます。今までは災いの後にファラオの頑なさが記されておりました。しかしこの場面では、災いが起こる前に、「主はモーセに言われた」(10章1節)と記されていることから、神が戒めとして災いを起こされる意味がいっそう強められていると言えましょう。神が災いを起こされるのは、神が主であることを、ファラオたちとイスラエルの人々が知るためでした(1〜2節)。「イスラエルの人々が知るため」という言葉には、後の出来事への伏線があります。なぜならイスラエルの中には、エジプトを脱出した後に神のことを忘れた者がいたため、神はご自身の存在を忘れないようにするために災いを加えたと考えられるからです。
 また、10章に記されている、いなごと暗闇の災いの中では、暗闇の災いに象徴的な意味があります。なぜなら「暗闇」には、天地創造の前のカオス(=混沌)の状態が象徴されていることから、出エジプト記の著者は、「暗闇」によって、神がこの後に新しい創造の御業として、イスラエルの人々をエジプトから導き出される恵みを示しているからです。私たちはこの意味をおぼえて、ファラオに対しては戒めである災いが、イスラエルの人々に対しては恵みのしるしであることを心に留めたいと思います。

2.ファラオと家臣たち

 災いが重なり、家臣たちが進言しているにも関わらず、ファラオの心は頑迷なままでした(10章7節参照)。この場面では特に、「モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(11章3節)という御言葉を心に留めるべきでありましょう。なぜならこの言葉には、「裸の王様」となって行くファラオの哀れな結末が暗示されているからです。このように、家臣や民と心が離れて行った結果、多くの為政者が失脚したことは、その後の歴史にも証明されています。
 また、ファラオの家臣たちがモーセに、「ひれ伏す」(11章8節)と記されている言葉は、「礼拝する」という意味を含んでいる言葉です。このことから、出エジプト記の著者は、この御言葉によって、イスラエル以外の人々が神を礼拝する時が来ることを預言していると考えられます。この後に長い年月を経て、初代教会から古代教会時代にかけて、「コプト教」と呼ばれるキリスト教の会派や、「アレクサンドリア学派」と呼ばれる学究的なグループがエジプトで発展したことには、神が、ご自身を礼拝する民をエジプトに創造された御業が示されていると言えましょう。
私たちはこの意味を心に留めて、神が全ての歴史を司っておられ、遠い東洋の島国にも教会を起こして下さった御業を感謝して受け入れる者とされたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

神は、私たちには災いと思える出来事の中にも、ご自身の救いの御業を示されることがあります。また神は、私たちの思いを越えてご自身を礼拝する民を招いておられます。私たちはこの意味を心に留めて、歴史の中に神の恵みを見出す信仰の目を与えられることを祈りつつ、アドヴェントからクリスマスの時を歩んでまいりましょう。