巣鴨教会聖書研究会 出エジプト記9章

2007年11月18日 渡辺善忠

 

1.二つの災いの意味

 9章に記されている家畜への災いは、これまでの災いよりも深刻でした。なぜなら、古代の人々にとって、家畜は生計を営む土台であったからです。特に、イスラエルは元々遊牧民族であったことから、家畜を失うことは、生活に直接関わることであったに違いありません。私たちはこのような背景をふまえて、家畜が死ぬことは、現代においては全財産を失う意味であることを示されたいと思います。 また、「疫病」(3節)という言葉は、旧約聖書においては、神が裁きを行われる文脈で使われています。「疫病」はあぶ(8章参照)によって伝染したと考えられますが、出エジプト記の著者は、「疫病」という言葉によって、自然の災害が神の裁きであることを示していると言えましょう。また、13節以降の雹の災いの場面には、「野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた」(25節)と記されていることから、この出来事の背景にはおそらく、大規模な天候異変があったと考えられます。 現代においては、自然災害は神と関わりがないと理解されています。自然災害を安易に神の御心に結び付けることはできませんが、私たちは、古代の信仰者たちが自然の営みを通して神の御心について考えたことにならって、一見神と関わりがないように見える出来事の中にも、神の御業を見出すことの大切さを心に留めたいと思います。

2.ファラオの罪

 エジプトに災いが増し加わっているにも関わらず、ファラオの心は頑迷なままでした(7節、12節、34〜35節参照)。出エジプト記の著者は、頑ななファラオの姿を繰り返し示すことによって、神に背き続ける人間がなぜ存在するのかということについて熟考を求めていると思われます。私たちはこの意味をおぼえて、「わたし(神)は、あなた(ファラオ)にわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」(16節)という言葉に、神に背く人間が存在することについての、出エジプト記の著者の考えが示されていることを学びたいと思います。 私たちはさらに、この場面で、ファラオの罪が自然の災いを引き起こしていることを心に刻むべきでありましょう。なぜなら9章の場面には、神が創造された自然をないがしろにした結果、深刻な環境破壊を引き起こしている現代の人間の姿が象徴されているからです。この意味を創世記の創造物語に照らしてさらに考えますと、9章の御言葉は、神が創造された自然を治める責任を人間が軽んじた時に、罪の結果が動物や自然に及ぶことへの警告であると言えましょう。また、神が動物を守られた出来事には、問題が人間の側にあることが示されています(19節)。私たちはこの意味を心に刻み、神に委ねられた自然と共存することの大切さを心に刻みたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

 ファラオと同様に、私たちも頑なな心を持った罪深い者です。しかし神は、ご自身の御名を全地に語り告げるために私たちを用いておられます。私たちはこの意味をおぼえて、神から委ねられている働きを教会として担うことの大切さを心に刻みつつ、それぞれが与えられている務めに励んでまいりましょう。