巣鴨教会聖書研究会 出エジプト記8章12節〜8章28節

2007年10月28日 渡辺善忠

 

1.ぶよの災い

12〜15節に登場する「ぶよ」は、「蚊」や「シラミ」とも翻訳出来る言葉です。エジプト人は日常的にこのような害虫に悩まされていました。ぶよや蚊は、現代でも悪性の病原菌を運ぶ存在であることから、この災いは生命に関わる出来事であったと思われます。この場面では、ファラオに対する要求や警告が記されていないことから、この災いは、ファラオが約束を破ったことへの裁きの意味があると言えましょう。  また、土の塵(12〜13節)という言葉には象徴的な意味があります。なぜなら旧約聖書では、人間が塵から生まれ、死んで塵となることが記されている箇所が多くあるからです(創世記3章19節、ヨブ記10章9節、コヘレトの言葉3章20節等)。「塵」がこのような意味を含んでいることから、この言葉には、エジプト人を滅ぼされる神の御業が示されていると考えられています。このことから、ファラオには、神に逆らい、滅ぼされる悪しき人間の姿が象徴されていると思われます。  この意味は私たちにも深く関わっています。なぜなら私たちも、「塵」である私たちに生命を与えて下さった神の御業を忘れ、神との約束を忘れてしまう悪しき者であるからです。私たちはこの意味をおぼえて、ぶよの災いの場面によって、神が私たちを創って下さった恵みを繰り返し思い起こすべきでありましょう。

2.あぶの災い

 16節以降には、ぶよにあぶが加わった災いが伝えられています。災いが増し加えられていることには、神の裁きが段々と厳しくなっていることが示されています。  この場面ではまず、「畑地」(17節)という言葉に警告の意味があります。なぜなら「畑地」の元の「アダーマー」という言葉は、人間として最初に創造されたアダムと同じ語源の言葉であることから、「畑地にあぶが満ちる」という言葉には、アダムに代表される全ての人間に災いが及ぶ可能性があることが示されているからです。  また、イスラエルの人々が住むゴシェン地方に災いが及ばなかった出来事には、後にエジプトを脱出する時に、イスラエルの人々が災いから守られることが指し示されています。さらに、イスラエルの人々が災いに合わない理由について、「主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる」(18節)ためであると記されていることから、この出来事には、イスラエルの信仰共同体や後の時代の教会が、神の働きを伝える器として用いられることが預言の意味で示されていると言えましょう。  真に神は、私たちには自然の災害に思える出来事を、ご自身を知らせるために用いておられます。私たちはこの意味を心に刻み、私たちの考えを超えて、神がご自身の救いの働きを広く伝えておられる御業を見出す者とされたいと思います。

3.私たちへのメッセージ

 神は、教会を通してご自身の救いの御業を伝えておられます。神はまた、私たちの思いを超えて全ての人々を救いに招いておられます。私たちはこの二つの意味を心に留めて、神が全ての人々を、ご自身の救いの恵みに招いておられる御業を見出すことを祈り求めつつ、教会として託された伝道の業に励んでまいりましょう。