巣鴨教会聖書研究会 出エジプト記3章

2007年5月20日 渡辺善忠

 

1.モーセの召命

 モーセは聖書の中で神の言葉を取り次ぐ者として召された最初の人物です。モーセが召命を受けた出来事の中では、2〜5節に記されている「燃える柴の出来事」がよく知られています。この場所が「荒れ野の奥」(1節)であったことには、召命が神の言葉のみが聞こえる場でなされたことが示されています。また。モーセが召命を受ける出来事が7章まで続くことには、モーセを始めとする預言者や信仰者の召命が、一度限りのものではなく、繰り返し続くことが象徴されていると言えましょう。

またモーセがこの場面で、自分が召命に値しない者であると反論し、神と論争していることには大切な意味があります。なぜならこの出来事には、召命が決して一方的な命令ではなく、神との生ける対話であることが示されているからです(11、13節)。

このように、モーセが神との論争の内に召命を受け入れた出来事は私たちにも深く関わっています。なぜならこの場面には、神がご自身の救いのご計画を一方的に押し付ける方ではなく、人間の問いに耳を傾けて下さる寛大な方であることが示されているからです。このことをさらに申しますと、もしも私たちが自分の意思を持たずに、悪い意味で受動的な信仰生活を歩むならば、神が御心を示して下さる道を閉ざすこともあると言えましょう。私たちはこのことをおぼえて、神との論争の内に召命を受け入れたモーセの姿にならって、神の御心を問い続ける者とされたいと思います。

 

2.神の名

 神はモーセの問い掛けに応じて、ご自身の名を「わたしはある」と示されました(14節)。この名は「わたしは存在する」という意味であることから、神はこの言葉によってモーセに、「わたしはあなたのために神で在り続ける」というご自身の意思を示していると考えられます。また、「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)という御言葉には、神がモーセと共におられる約束が示されています。これと同じ言葉が4章にも記されていることから、出エジプト記の著者は、神がモーセを代表とするイスラエルの全ての人々と共にいて下さる方であることを強調していると思われます(4章12節、15節参照)。この意味で、「わたしはある」という名前には、イスラエルの全ての歴史に、神が共におられるという聖書全体の主題が示されていると言えましょう。

 私たちはさらに、神の名が旧約聖書に数え切れないほど記されていることに加えて、ヨハネによる福音書に記されている「わたしである」という主イエスの言葉が、旧約聖書が記されたヘブライ語の「わたしはある」という言葉のギリシャ語訳であることを心に留めたいと思います(ヨハネ福音書18章5節、8節)。なぜならヨハネ福音書の著者はこの言葉によって、主イエスが神であることを示しているからです。私たちはこのことから、「わたしはある」という名が、聖書全体に記されていることを心に刻むと共に、教会として神の名を伝え続けてまいりたいと思います。

 

3.私たちへのメッセージ

 神は不完全な人間であるモーセをご自身の御業のために召されました。私たちはこのことから、神が、どのような御業を担わせるために私たちを召して下さったのかを問い続ける者とされたいと思います。また、私たちが教会として神の名を伝え続けることの大切さを心に刻みつつ、委ねられた伝道の御業に励んでまいりましょう。